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二人の自分。真我の立ち位置に立つ時の感覚とは?

丹波篠山に1週間滞在して、友人姉妹に行ったソウルダンスセラピー。

今回はお姉さん、「ひーちゃん」の方の体験談をシェアさせていただきます。

ひーちゃんは、以前、ダンスセラピーのモニターになって、体験してくれたことがあり、今回は2回目です。


ひーちゃんは、ダンスで一通りの感情解放が終わった後、横になっている15分の間に、

を体験しました。

「自分を見ている、もう一人の自分がいた。そして、俯瞰している方の自分が、もう一人の自分に

『ひーちゃん、可愛いね』

という言葉が飛び出したよ。

以前、ソウルダンスセラピーのモニターをやった時は、

私は、この話を聞いて、インド修行に行く前、およそ今から20年ほど前に、東京でダンスセラピーを受けた時に体験した、衝撃的な出来事を思い出しました。

「あれ?自分が二人いる!」という感覚です。

これは、多重人格とか、二人の自分が葛藤している、という意味のものではなくて、

また、「自分でイメージした自分」でもないんです。

「自分でイメージした自分ではないでしょう?」

「そうそう、自分の頭から出てきた自分じゃない。イメージしているわけじゃない」

「そうだよね」

言葉にするのがとても難しくて、これは、体験した人にしかおそらく通じないもので、体験していない人には、どれだけ言葉を尽くしても通じない話なのですが、それでも言語化してみたいと思います。

私が二人の自分がいる、という不思議な感覚を持った時に感じたことは、

そんなことは、1ミリも考えたことなかった。

実は、自分が自分にしている扱いなんて、客観的になれなくて、自分ではよくは気づけていないんですね。

でもそれは、巷によくある「俯瞰して物事を考えましょう」というのとは違うんです。

自分で意図的に、イメージして、なんとかしようとして、起こすものではない感じ。

意図的に起こしたり、イメージして見ているもう一人の自分ではないから、

と一瞬、びっくりするんですよ、自分でも。

そこが、体験した人でないと、想像もつかないところだと思います。

私たちは、元々、真我の存在(永遠不滅)だから、そこに「戻った時」というのは、「そうそう。ここにいるのが、普通よね」という感覚なんですね。当たり前の場所に還っただけのことだから。

だから、私は「京子さんは、すごい話を、淡々とするね」って友人にも生徒さんにも、よく言われるんですが、「本当に、実際に、体験した人にとっては」当たり前の、普通のことだから、大袈裟に語る必要もないことなんです。

よく、聖者が、「悟りというのは、この世で一番簡単なこと」と言う方がいますが、案ずるより産むが易しで、体験した側からすると、なんてことはない普通のことで、特別でもなんでもない。

体験したことない人からすると、ものすごい特別なこと。

だから、本当に体験した人の話かどうかは、その人の「淡々さ」「脱力」の具合を見れば、見分けがつくと思います。

さて、話を戻すと、

ひーちゃんの体験談を聞きながら、その感覚のことを言っているんだ、ということが、感覚的に伝わってきました。

「それは真我の立ち位置で、個としての自分を観察していたんだよ」

「真我って何?」

「本当の自分のこと。True Selfだよ」

「そうなったら、どうなるの?」

「真我実現するってことは、悟りってことだけど。理論上は、輪廻が終わると言われているけどね」

「京子ちゃんも、前に、体験したことあるんでしょう?」

「きっと何段階もあるんだと思うよ。スピリチュアルな成長は、螺旋階段みたいに続いていくと言われてるんだ」

真我の立ち位置に立つと、今まで見えなかった、いろんなことが見えてきます。

自分が本当はどんな「個体」なのか?

自分が自分に対してどんな扱いをしてきていたのか?

自分自身に抱いていた自己イメージや、ストーリーや、信念が、偽りのものであったこと。

まるで、完全に他人のことを見ているみたいに、冷静に、分かるようになります。

俯瞰している方の自分には、執着がないので、感情に巻き込まれないから、物事があるがままに、冷静に見れるのです。

でも、また日頃の習慣に戻ってしまうから、真我の立ち位置は忘れます。

毎日、いろんな日常の雑務や、その都度起こる感情に、振り回されているうちに。

だからこそ、この「本当の私・真我」の立ち位置を定着させるために、何度もプラクティスを繰り返しが必要で、余計なものを手放し、何層もの殻を破りながら、安定させていくんだと思う。

今回体験したことを、インド哲学で説明するなら、

真我は、「観察者」サクシー(サンスクリット語)

観察する者。こちらは、生まれることも死ぬこともない、永遠に存在するもの。

そして、真我以外のその他すべては、観察される者。

可愛いねと言われていた、観察される側は、生まれ変わりを繰り返している「個」インディビジュアル。エゴやマインド、肉体や感情の方の自分。

でも、よくある心理系のワークで、自分をもう一人の人と見立てて、観察してみましょう、というのとは、違う次元のものなのです。

さっきも言ったように、幽体離脱に近くて、完全に違う他人として自分を見ている、通常の意識状態ではない感じ。

よくある、心理系のワークで起こっていることは、おそらく、エゴがエゴを見ている構図。

その状況は、どこまで行っても、エゴが瞑想しているだけで、なかなか進歩がないのと似ています。

分かりやすくするために、対比させて説明していますが、もちろん、そうじゃない心理系ワークもあると思いますよ。


おめでとう!すごいね、たった2回のダンスで。1回目とまた違った体験をされました。

私も20年前に「二人の自分」を体験した時、それがどういう体験だったのかを説明してくれる人には出会わなかった。

「自分が二人いたんだよ!」誰かにそう話しても、「なに、それ、どう言う意味?」と理解されなかったことを、今でも鮮明に覚えています。

でも、その後の5年間のインド修行のおかげで、これがどういう現象なのかが、今回多少なりとも説明できて、友人の理解が進む助けになれたのだったら、嬉しい。


「インド占星術を受けた時、スピリチュアルな方面が向いているのに、なんでそちらに行かないんですか?と言われたよ」という、ひーちゃん。これから、人生がどう展開していくか、楽しみにしているね!

補足:

ひーちゃんは、セッション後、愛犬ココちゃんを抱えて、素敵な笑顔で座っていました。

セッション後のひーちゃんが、ココちゃんと顔がソックリになっていたを見て、私は言いました。

「いつも、可愛いね、可愛いね!ってココちゃんに言ってたのは、自分自身に対して言ってたんだね」

あなたが、ペットや家族や友人にいつも言っている言葉は、自分自身に言いたいことや、自分自身に感じている本心かもしれません。