禅センターから帰ってきました。
南インドの、コダイカナルという町の近くに、このセンターはあります。
コダイカナルは、高地にあるので、避暑地として、リゾートに訪れる人が多いようです。
4,5月は一番暑いシーズンなので、コダイカナルへの電車は、すでに満員状態、
100人を超える人がキャンセル待ちの状態でした。
私は、バスで行くことにしました。所要時間、12時間。
トイレに行けたのは、たったの2回。帰りは早めに電車を予約しようと決めました。
近くの村、ペルマルマライでバスを降りました。
バスの中では、うとうと眠っていたのですが、
不思議なことに、村のバス停に着くちょうど直前に、
目がぱっと覚めて、キョロキョロしていたら、
「もうすぐペルマルマライだよ」と近くに座っていた
地元の人が教えてくれました。何かの力に起こされたような気がしました。
村から禅センターまでは、山道を歩きます。
小学生の4人組みが、話しかけてきて、一緒に山を歩きました。
子供たちは山の上の方に住んでいるそうで、
子供たちの家の近くにくると、私が行く方向を教えてくれました。
インドの子供たちは、すごくオープンで、すぐに仲良くなります。
エネルギーがほとばしる子供たちが、元気いっぱいに、
「バイバイ!」と繰り返します。私も手を振って、歩いて行きました。
5分くらい歩いた頃でしょうか、「キョウコー!」、
と遠くから聞こえて、振り向くと、子供たちが別れを告げた同じ場所から
大きく手を振っていました。
かわいい~!胸がほくほく、あったか~くなりました。
さて、30分ほど山道を歩いて、禅センターに着きました。
驚いたことに、目の前に広がるのは、美しい日本庭園!!
その周りを囲むように、個室が並んでいます。
とても美しくて、楽園に来たかと思いました。
このシチュエーションでは、「涅槃」(ニルバーナ)が合ってるかもしれませんね。
一人ひとりに、個室が用意されています。
とても清潔で、机、椅子、ベッド、そしてベランダには、
各自が使える、籐のリラックスチェアも用意されていました。
(プラスチックの椅子じゃない! 驚! ←通常、どこのアシュラムもプラスチックが多いので)
なんという、気前のよさでしょう。
ここのマスターの愛をいたるところに感じます。
ご飯も美味しいです。これは重要なポイントですよね。
主に、インド料理ですが、インド料理が苦手な私でも美味しく、毎日飽きずに
楽しめました。たまに、チーズたっぷりの、トマトソーススパゲッティ(フレッシュバジルソースも)も出てきましたよ。
ここのマスターは、アマ・サミィというインド人の方で、
日本の禅寺でも修行されたそうです。
ヨーロッパによく禅を教えに行かれるそうで、
とくに、ドイツと縁を深くもたれ、
このセンターにも、ドイツの方がたくさん来られていました。
私がちょうど着いた日から、SESSHINが始まりました。
5時起床、5時半から座禅、7時に朝食、8時から9時に作務(セーバ、無償の奉仕)です。
3日間のSESSHINの間は、沈黙ですごします。
無言でみんなと働く中、人の思いやりを感じて、心がやさしくなりました。
沈黙で過ごすと、より、相手の気持ちを感じますね。
だから、私は沈黙の時間が大好きです。
お昼の前に、講和がありました。
「音楽家でも、たくさん練習して楽器がひけるようになる。
なにはともあれ、プラクティスを積み重ねることが大事」
「怒りの感情は誰にでも起こる。それに自分はどう反応したいのか。
成熟した(マチュアな)反応の仕方を学ぶことが大事」
とのお話でした。
夕方の座禅では、マスターと一対一で話すことができる
DOKUSANがありました。
それに行きたい人は、座布団の下にある
スートラ(お経)の冊子を目の前に出すというサインを出すことになっています。
私は、ここに来たので、ごあいさつしたいと思い、DOKSUANに行くことにしました。
マスター「ティルバンナマライに住んでいるのですか?」
私「はい。」
マスター「グッド、グッド。日本では何をしているんですか?」
私「ヨガを教えていました」
マスター「ティルバンナマライでも?」
私「はい、少しずつですが、始めています」
マスター「グッド、グッド。プラナヤマはサマーディ(悟り)の助けになりますからいいですよ。何か質問はありますか?」
私「今は特にないです」
マスター「グッド、グッド」(チリンチリンとベルを鳴らされる)
チリンチリンとベルが鳴らされると、そこを立ち去るという仕組みだそうです。
シンプルな会話でしたが、マスターの素朴さ、美しさ、優しさ、寛容さ、愛を感じました。
3日後のDOKUSANでは、マスターに、
「このセンターの至る所に、マスターの愛、慈悲、寛容さ、優しさを感じます。ありがとうございます。とても楽しんでします」と伝えました。
すると「今日、ここを去るのですか?」と聞かれました。
日本人の癖かもしれませんが、すぐに、そして何度もお礼を言いたくなりますよね。
でも、他の国では、お礼を言うのは、最後だけのようです・・・。
ここで、みんなによく聞かれましたが、「日本でも禅寺で禅をしたことがありますか」という質問。
そして、ここに来る前は、「日本人なのに、インドで禅寺に行くの!」とからかわれたり。
実は、ここが初めての禅体験なのです。
しかし、ここには、日本の禅寺で2年間修行したというフランス人の方に会ったり、
10年以上も禅をしている人もたくさんいらっしゃって、日本人の私より断然、禅用語に詳しく、一度、面白い会話をしました。
ダイニングホールで、みんなでお喋りをしていた時のこと。
私「30分の座禅の後、自由に歩くことを、フリーなんとか、って言ってますよね。あれは何と言ってるんですか?」
あるオーストラリアの方が、「きんひん(経行)ですよ」
私「それはどういう意味ですか?」
「はっ。これは日本語だよ。ふふふ。」
私「え!そうなんですか?あなた知ってました?」隣に座っているドイツ人に聞くと、
「知ってましたよ、ドイツでも座禅してましたから」どうやら、ここに座っているいろんな国籍の中で、私だけが知らなかったようです。
最初のオーストラリアの方が、「ZAZEN(座禅)も、日本語。ZABUTON(座布団)も日本語ですよ」
とからかわれ、
私「それは知ってますよ!あはは!でも、私が唯一の日本人なのに、日本語を知らないなんて、面白いですよね」といって、みんなで笑いました。
SESSHINの日は、一日6時間の座禅、普通の日は、3時間ととても緩やかなスケジュール。
普通の日は、自由に時間を使っていいことになっています。
図書館もとても本が充実していました。
私は、自由時間には、山歩きを楽しんだり、ここの人たちとお喋りをしたりしました。
また、3時間では物足りないので、決まった時間以外も、瞑想したり。
山を歩いていると、地元の子供たちと会うんですよね。
ここの子供たちは、からっぽの手を差し出してお金をちょうだいと言いに来るのではなくて、
手に花を持って、輝く笑顔で走ってくるんですよね。
子供たちの純粋な笑顔と、自然の力で、自分もどんどん
目が澄んでくるような気がしました。
自然に囲まれた環境で、瞑想だけに集中できるこのセンターは
すごく居心地がよく、3週間、あっという間に過ぎました。
ーーー
さて、禅センターについて、もう少し追記しておきます。
ここに来ていた人達は、20代から70代までの、ほとんどが欧米、オーストラリア、インドからで、東アジアからは私だけでした。
いろんな国籍の、いろんな年代の人たちと一緒に、
禅のお経(日本語だったり、パーり語だったり、英語だったり・・・
お経を、木魚を叩きながら読むんですが、英語なんですよ。それが妙に笑えました。
Form is emptiness, empiness is form と、抑揚のないリズムで読むんです。好きでしたけどね)お経を唱えて、一緒に座禅を組むというのは、ほんとに楽しかったです。
職業も様々でした。ヨガインストラクターの方も、ブラジルからと、ニュージーランドから来られていましたよ!二人とも、インドや他の国で、ヨガを熱心に追求さていて、話しが盛り上がりました。
他には、ビジネスコンサルタント、会計学の先生、宗教の先生(学校の科目としての)、英語の先生、
コミュニティをマケドニアで作ろうとしている20代の若者、マッサージセラピスト、お坊さん、仕事をリタイアした方など、様々でした。
30人ほどが一緒に生活していますが、とても楽しく、快適に過ごせましたよ。
長期滞在しても、苦にならないと思います。
私はかなり、自由が大事と感じる方ですが、それでもダイジョウブでした。
あと、感じたのは、同じスピリチュアルの追求をしていても、
全く話が合わないこともあるということ。
自分が住んでいる町では、ラマナの考えに傾倒している人がほとんどなので、
一言、二言いうだけで、話はすぐに通じるんですよね。
しかし、ちょっと違うところにいくと、こういう場所でも、
かなり考え方が違うんだなあということを思いました。
しかし、議論をしても仕方がないので、あまり深いところには触れず、
お互いの存在や、文化、お互いの国や家族、友人の話やジョークなどで
盛り上がりました。
休憩時間のおしゃべりと、座禅の時の静けさ、真剣さ、その繰り返しが、とてもよかったです。
また、一週間に一回、沈黙の日、そしてもう一日はフリーの日などもあって
規律と自由のバランスが絶妙で、いいんですよね~
ここに通っている人は、大好きで10年以上という方も、ちらほら。
すごく居心地がいいし、楽園のように美しいし、清潔だし、ご飯は美味しいし、インドではなかなか見つからないようなところだと思います。