外国人なんて人生で一度も見たこともないような、インドのローカルの人たちと、身振り手振りとユニバーサルラングエッジ(万国共通の言葉)の笑顔だけでコミュニケーションしていると、知識をつめこめばつめこむほど、人間という存在は神経質で苦しくなり、知識がなく純粋な状態ほど、あっけらかーんとした屈託のない太陽のような笑顔でいられるんじゃないかということをしばしば思います。
インドで出会った聖者が、「教育とは、無知を学ぶことだ」と仰っていました。
これは、自分が無知だと知ることという意味もあるかもしれないですが、それ以上に、この時の話の流れでは、知識をつめこむほど、真理から遠ざかることを意味していたと思います。
皮肉なことに、苦労してお金をかけて、私たちは、ますます邪魔なものを背負い込んでしまいます。
なぜなら、知識、マインドの及ばない領域に真実があるから···
老子の道徳経にもそのようなことが、何度も違う表現で書かれています。
老子の言うタオは、インド哲学でいう「真我」と同じことをあらわしているように思います。
ヨガ・瞑想で知識の及ばない、知識や言葉を超えた領域へと進んで行くのです。
インドと中国、数千年前の大昔、聖賢たちは、同じようなことを考えていたんですね。
というより、真理に行きついた人は同じ事をいうのは当たり前といえば、当たり前ですね。
第71章 知識病
知らないことばかりだ、と知ることが、上等な知性なんだ。
何でも頭で知っていると思う人は、病人といってよいだろう。
誰でもみんな一度はこの病にかかるがね、しかし
「知られない領域」からくる道(タオ)につながった時、ひとは
この病からぬけでるのだよ、だって
自分が知識病を病んでると知れば
とたんにこの病は病じゃあなくなるからさ
第33章 「自分」のなかの富
世間の知識だけが絶対じゃあないんだ。
他人や社会を知ることなんて薄っ暗い知識にすぎない。
自分を知ることこそほんとうの明るい智慧なんだ。
第47章 君自身への旅
タオの道は世界に行きわたっている。
けれどもそれは世界中旅して廻ったって見つかりゃしない。
インターネットの「ウインドウ」をいくら覗き込んだって、分かりゃしない。
遠くへ尋ねてゆけばゆくほどますます遠のくんだ。
情報を集めれば集めるほどますます分からなくなるんだよ。
逆に、タオの人ってのはあちこち出かけないでいてちゃんと知ってるんだ、
キョトキョト見廻さなくたって大事なものが見えてるんだ。
だから、ゆったりと何もしないでいてとてつもない大きなことが
仕上がってゆくんだ-君のなかでね。
第64章 「終わり」もまた「始め」のように(省略)
タオの人はいまのことを大事にするのであり、
成功や財産や高い地位なんてまったく欲しがらない。
知識ばかり取り込もうとしないで、
知識を超えた向こうのものを腹に収めようとする。
ということは、萬物の自然の在り方を知り、
その成功と動きを助けること、
そして知識や欲望からの行為をできるだけ控えることだ。
(『タオ』 加島祥造)