禅マスターとの会話
カナダ人の友達と出会ったのは、南インドにある禅センターでした。
禅センターには、日本人はほとんど来ておらず、私一人。
ドイツ人がほとんどで、アメリカ人、そしてたまにインド人くらい。
「なぜ、こんなに禅が欧米で注目されているのかな?あなたはなぜ、禅に惹かれるの?」とカナダ人の友人に聞いてみると、
「ルールが少ない。シンプルだから」と、答えも、これまたシンプル。
「ルールが多いのは嫌いって言うけど、禅センターにあったルールは、問題なかった?」
禅センターには、全くルールがないというわけではなくて、沈黙の日(会話をしてはいけない、一日中、沈黙で過ごす日)があったり、鐘がなれば、お堂に入って瞑想をしたり、服装も肩や膝を出してはいけないなどのルールがありました。
「そう言えば、仏像に、毎回、頭を下げることに抵抗があったんだ。それで、マスターに質問に行った」
「マスターは何て?」
「お辞儀は、自分自身にしてるんだっていう答えだったよ」
前回の記事にも書いた、糸島のお寺でのお坊さんとの会話にも、そんな話が出て来たのを思い出しました。
仏様を拝むのは、偶像崇拝ではなく、自分の心を省みるためにするんだって。
手を合わせるのは、私の心とあなたの心がつながりますっていう意味だって。
「自分自身へ、頭を下げる」
すごく美しい。
真髄が集約された答えだなと思います。
自分の外にあると思っている神様を偶像の中に見て、崇拝するのではなくて、自分自身に、頭を下げる。
私たちには、お辞儀の文化がありますが、
心を込めてお辞儀をする度に、自分の中の神性に(相手の中の神性にも)敬意を払っている
と考えたら、日常のお辞儀の意味が変わってきそうですね。
私たちが、知らず知らずのうちに行なっている日常の動作の中には、そんな深い意味があったんだと分かったら、生活ももっと豊かになりそうです。